Tuesday 10 May 2011

ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2011 C-34c: 月に憑かれたピエロ op.21

この公演を無理やり一言でまとめてしまうなら、センセーションがふさわしい。冒頭、シルエットから見て取れる身体のモーションを見た瞬間に鳥肌が立った。ダンスが音楽と対等に存在し、あたかも第8,9の「声部」のような親和性をもって音楽と融け合って存在することが冒頭の一瞬で示された。第3部へ向けて緊張感と集中を高めていく全体構成もまさに圧巻で、第3部の持続的な緊迫感が特に強く印象に残った。


参考:ラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2011

日時:2011年5月5日
会場:東京国際フォーラム ホールC

勅使河原三郎 [ダンス]
佐東利穂子 [ダンス]
マリアンヌ・プスール[ソプラノ]
サンガー・ナー[フルート/ピッコロ]
インヒョク・チョウ[クラリネット/バスクラリネット]
ギョーム・シレム[ヴァイオリン/ヴィオラ]
ジュリアン・ラズニャック[チェロ]
フローラン・ボファール[ピアノ]





震災の影響で内容を変更して開催されたラ・フォル・ジュルネ・オ・ジャポン2011。何はともあれ、安易に中止せず最善を尽くして開催に漕ぎ着けたことは賞賛されていいと思う。こういう状況で、あえて来日および出演してくれたすべてのアーティストに感謝したい気分。結果的に縮小開催されているので、キャパシティの問題で多くの公演チケットが手に入りにくい状況になっていたと思う。そんな状況であったため、今回は聴きに行くべき公演を厳選してこの音楽祭に臨んだ。そのなかの一つがこの公演。

フローラン・ボファールが指揮者的役割を果たしているように見えたが、明確な指揮行為があるわけではなく、基本はあくまでも聴き合うことでアンサンブルを成立させた。これは各奏者の高い技量と作品の深い理解を示している。もちろん実際に指揮者を置く場合のように、より踏み込んだ解釈やダイナミックな展開を期待することは難しい。しかし、こと今回に関しては、その丁寧なアンサンブルがダンスとのコラボレートに寄与していたことは特筆すべきだと思う。指揮者を置いてしまっていたら、今回の公演のように自発性に満ちた表現は生まれなかったのではないかと思う。

この作品は元来抽象的な作品である。オペラやオラトリオなどのように、ある程度具体的なプロットがあるわけではなく、あくまでも観念的心理ドラマが断片的に展開されるのみである。この表現手段としてシュプレッヒシュティンメを採用し、情緒面の表現により大きな振幅をもたせている。このように、より観念的で抽象的表現に聞き手の注意が向かいやすいため、舞台芸術のようにある程度具体性を伴う表現の伴うコラボレーションでは、音楽や詩(シュプレッヒシュティンメ)と、その他パフォーマンス表現のバランスが常に問題となる。

結論から言うと、今回の公演ではあくまでも音楽を主軸に据え、舞台上の表現すべては音楽と一体化するかたちで展開された。音楽とダンスの間には明確な主従関係は存在せず、互いに対等な関係を保ちつつ自由に絡み合い、まさに音楽と一体化した表現が実現されていた。これは照明についても言えることで、具体的な場を想起させるような仕掛けは一切使用せず、光源配置の工夫と明暗対比の妙によって、音楽とダンスの抽象性を疎外することなく場の空気感を作り上げていた。

この表現を実現するに当たって、勅使河原三郎と佐東利穂子によって提示されたモーションは流動的、且つ、不規則に見え、この音楽作品が描く音の軌跡と相性がよかった。この音楽とダンスの、一体感の中での独立性というバランスは、この音楽の対位法的性格と相まって印象的な効果を生んでいたように思う。

今回の解釈は今後同種のコラボレーションにおける一つの指標と見なされるべきものだと思われる。概念としては想像しやすい表現意図ではあるが、実際に演じられる時点でこのコンセプトが実現されることは極めて稀であり、一重に今回の出演者全員の作品に対する深い理解と卓越した表現力の賜物であると思う。