Friday 18 February 2011

「キース・ジャレットのソロコンサート」とは何か。

Keith Jarrett Solo 2011

2011年5月、およそ3年ぶりにキース・ジャレットが来日する。プロフィール等については他サイトを参照してもらうとして、このエントリーでは、彼のソロコンサートという体験が如何なるものか、語ってみたい。

これにはそれなりに理由がある。今年1月16日カーネギーホールで彼のソロコンサートを聴いた。音楽自体は素晴らしいものであったが、コンサート全体としては微妙な経験になった。

Keith Jarrett Returns to Carnegie Hall - Review - NYTimes.com

じつは以前に日本でも似たような事件があり、私自身としてはその時の記憶が鮮明によみがえってきた。その後ずっと考えていたのだ。なぜこんなことになってしまったのか。思い至る原因はいくつがあるが、その中でもっとも気になった懸念は「聴衆側が彼のソロコンサートがいかなるものか、理解出来ていないのではないか」というものだった。

そこで、今回の来日に合わせて、何でもいいから何かできることをしようと思い立ち、このエントリーを書き起こした。いろいろな意見があって構わないと思うが、このエントリーが彼のソロコンサートを深く理解する上で一助になれば、目的は達せられたことになるだろう。




はじめに知っておいて欲しい。彼のソロコンサートをリラックスして楽しむつもりで来ると、その期待は見事に裏切られる。我々聴衆は強く集中して音楽を聴くことを求められ、傍観者としてその場に佇んでいられない。これがかなり大変なことだと十分に認識しているが、他のピアニストのやるコンサートとはまったくの別物なのだからそれも仕方ない。

録音された音の軌跡を期待しても見事に裏切られる。そこには『メロディ・アット・ナイト、ウィズ・ユー』や『ケルンコンサート』の再現はない。このように説明すると、ある人たちは「スリルがあっていいね」なんて呑気な感想を口にする。しかし、あえて指摘したい。そんな生やさしいものではない。


キース・ジャレットの即興演奏

彼のソロコンサートは基本的に即興で行われる。キース・ジャレットの場合、これは未発表曲をなぞって演奏するという意味にはならない。文字通り、演奏される得るすべてが舞台上で決定され、決断と同時に鳴り響く。

例えば、一般的な音楽ファンは、どんなに最悪の場合でも演奏がエンタテインメントの範疇を逸脱しないだろうという暗黙の期待がある。一方、彼の演奏はエンタテインメントであることを保証しない。

それどころか、音楽なしで説教食らって帰ってくるだけということもあり得る。不幸にも、聴衆の振る舞いに集中を乱されて音楽の途中で演奏を止めてしまい、聴衆に向かって説教してステージ袖に引っ込んでしまったことが何度かある。逆に、奇跡のような美しさを持った音楽が延々と展開されたことも何度もある。これを天才にありがちな気まぐれだと思うのは誤解だ。

卵が割れやすいといって販売店に文句をいう人はいない。繊細なものはふさわしく扱わなければ壊れてしまう。同様に、キース・ジャレットと共有する音楽も繊細なものだ。ふさわしい扱いが必要になる。


聴衆の役割

あくまでも音楽は演奏者の意思によって提示されるが、その際、キースは聴衆と同じようにその場で鳴っている音をよく聴き、展開の手がかりをつかんでいる。同時に、聴衆全体が暗黙のうちに醸しだす雰囲気からも影響を受けている。会場の雰囲気は、音楽が意味を持った表現として成立しているかどうかを知る手がかりとなり、それを考慮しつつ次の展開を決断するという。※1

我々聴衆はそこで生まれる音楽に影響を与えるのである。

演奏者と聴衆が相互に音楽に影響を与えあう以上、奏者を含めた全員に音楽への責任が生まれる。素晴らしいコンサートにしたければ、演奏者だけでなく聴衆も責任を分かち合わなければならない。

音楽に関与しようとする意思、積極的に聴く行為を通して得られる経験、これこそがソロコンサートの核心であり、それが彼のソロコンサートを特別なものにしている。我々が単なる傍観者であってはならない理由だ。

各個人がやるべきことは至ってシンプルだ。ただ集中して彼の音楽に聴き入ればいい。しかし、これが意外に難しい。音楽の展開を常に追いかけていないと、すぐに音楽に取り残される。もし彼のソロコンサートを存分に堪能したければ、どうすれば集中力を保ち続けることができるか、自分なりの方法を見つけておいたほうがいい。


芸術とエンタテインメントの間で

場の雰囲気からふさわしく影響を受けようとして、精神的にむき出しの状態でキースはステージに立つ。そして全力で音楽と向きあう。少なくともそのようにあろうとして毎回苦闘する。演奏中にはばかりなく叫ぶし、足踏みもするし、ピアノにあわせて歌ったりもする。誰かが写真をとれば演奏を止める。これはひとえに彼が無防備な状態にある証だ。

この無防備さはエンターテイナーには見られない態度だ。エンターテイナーは聴衆を最終的に楽しませることを目的とするため、聴衆を不快にさせる行為は極力慎む。一方、芸術家は表現によってある種の精神的衝撃を与えることを目的とし、手段ではなく表現に強くフォーカスする。キース・ジャレットがやろうとしていることはまさに後者であり、彼は音楽家ではあるがエンターテイナーではない。

そのような芸術家に礼儀正しいエンターテイナーになれというのは馬鹿げている。彼のソロコンサートは、出来合いの音楽を分け与えられる場でもなければ、傲慢な聴衆のための芸でもない。傍観者として気楽に楽しみたいのであれば他のコンサートに行けばよい。金を払ったという理由で保証を求めたいのであれば、彼のソロコンサートはふさわしい商品ではない。

これは即興演奏の本質に関わる避けがたいリスクだ。聴衆であるという特権に安住している私たちにとって、それは時として不快な記憶として心に刺さることもある。しかし、もし覚悟を持って望むならその経験からは多くを学ぶことができる。

聴衆に傍観者でいることを許さず、参加者として責任を求める。絶え間なく動く音に呼吸をあわせ、純粋なエナジーが切り開いていく時間に耳を澄ませて分け入っていく。その経験に、どうかエンタテインメントを期待しないでほしい。そこで展開されるのは荒々しく根源的な芸術体験そのものだから。

キース・ジャレットのソロコンサートはそういうものだ。



※1
『インナービューズ―その内なる音楽世界を語る―』 キース・ジャレット 著;山下邦彦 訳;ティモシー・ヒル/山下邦彦 編 P28 - P30